74号から

刀剣婦人(五)

授かり、産み出すもの

山本愛美
 最近、「刀が好き。」と言っても、あまり驚かれなくなった。今話題の、刀女子が浸透しているせいだろうか。
 私は「日本美術刀剣保存協会大阪支部」の鑑定会に参加し始めてまだ一年と少しだが、刀を手にし、静寂にひたる時間がとても好きだ。
 その時間は一瞬だが、ここに至るまでにどんなドラマや職人の想いがあったのか想像してみたり、刃文の美しさに思わずハッと息を呑んだり…。美しい刀に出会う度にとても嬉しい気持ちになり、スッと背筋が伸びる。
 刀との出会いは、刀匠・河内國平氏の正宗賞受賞を記念する展示である。私の職場である虎屋京都ギャラリーで二〇一四年十月に開催させていただき、今までの展示の中で最も多くのお客様に来ていただいた。
 私は刀に人生を捧げている河内氏のひたむきさと純粋さに心魅かれる。そしていつも愛情たっぷりの力強いサポートをされている奥様を、私は一人の女性としてとても尊敬している。河内夫妻のやりとりを拝見していると、このお二人だからこそ、名刀を生み出せるのではないかと思う。
 二〇一五年の夏、私は奈良の吉野にある河内氏の鍛冶場に伺った。
 刀が作られている鍛冶場は非日常の世界だった。暗く閉ざされた建物の中は、鋼を赤める炎とその鋼の熱でサウナ状態。真っ赤に焼けた鋼を扱われる河内氏の気迫は、思わず後ずさりしてしまうほどだった。
 「カーン、よし、カーン、いいぞ、カーン、芯やで、カーン、よっしゃ!」
 ある一定のリズムで奏でられる「鍛錬」の音は心臓に響き、炭やふいごの音、炭切りの音、全てが静と動を行き来している世界で、私は自身の呼吸すら邪魔にならないかと思いこわごわと息をしていた。「鍛錬」と一言で言っても、実際は見ているだけでも体力を使い、気が遠くなるような根気の要る仕事だった。そんな当たり前のことを、私は本当に何も知らなかったと改めて自覚した。

村下の木原氏とともに
 二〇一六年の一月末、幸いにもたたら操業の見学の機会に恵まれた。
 たたら場の中は見たことのない大きな炉から大きな炎が立ち上がっていた。村下(むらげ=たたら創業の最高技術責任者)の木原明氏の指示により、職人がそれぞれ自分に合った道具を使って砂鉄を炉に投入していた。初めは炎の勢いに驚いたが、いつまでも見ていられるような美しさ、安心感があった。炉に送り込まれる風の音、炭の音、炎の音は、とても落ち着くものだった。しかしこれは命がけの仕事であり、絶妙なタイミングとバランスで炉の面倒を見ている様子に圧倒された。炉は本当に生きているように呼吸をしていて、翌日に全て壊されると聞き、何だか切ない気持ちになった。
 翌日の午前五時、外は極寒の雪景色。たたら場に入り、外との温度差に驚きながら最前列に立った。見学者も危険と隣り合わせである。炉への送風が止められ、大仕事の前の、怖いほどの静寂が訪れた。「あぁ、これは出産だ。」そう思うと涙が溢れて来た。閉じられていた扉が大きく開かれ炉が壊されはじめると、強烈な熱と土ぼこりに包まれ、直視することも息も出来なかった。
 神々しい見たことのない赤色をした鉧が顔を出し、何ともいえない感動で気付けば私は合掌していた。鉧出し完了の号令と共に、たたら場は喜びの拍手に包まれた。職人の方々はもちろんのこと、「立ち合い」をしていた見学者も共に苦しくも神秘的な時間を過ごせたことに感無量だった。
 刀は人間が「作る」ものだと思っていたが、このたたら操業を見たときに、刀は「授かり、産み出す」もので、魂が宿っているのだと感じた。
 私は、今回の見学の最後に村下の木原氏が「河内さんによろしくお伝えください。」と仰ったときの表情が忘れられない。可愛い子供(鉧)をよろしく、と託す父親のようだったからだ。
 河内氏に御礼と報告をすると、こんな返信があった。「鉧(けら)は金偏に母ですね。本当に良い字を使っています。鉧出しは私も涙が出ました。ああ、良い刀を作りたい。」
 河内氏のもとに来た鉧たちは、必ず名刀となり、うんと輝くことだろう。
 まだ見ぬ美しい刀と出会えることが、とても楽しみで仕方ない。