70号から

刀剣婦人(二)

刀志

刀剣徳川
福岡幸子
 目の前には虎徹がいた。清麿がいた。
 私は数年前、学芸員資格の取得に挑んでいた。
 課題のひとつに「身近にいる匠にインタビューをしてその技の素晴らしさについて記述する」というのがあった。
 近所の編み物が上手なおばあさんとかに訊ねるらしい。そのことに私は憤慨し質問覧に「本当の匠に失礼だ」と書いてしまった。
 その科目の講師は、「貴女のように本物の匠に出会うことは、普通の生活をしていてはなかなか出来ることではない」という返事だった。
 課題は出入りしていた研ぎ師の若者に托した。いろいろと質問を用意し、質問すると彼の最初の一言は凄く意外なものだった。「われわれ研ぎ師も含めて刀匠を周りで支えている者は師であり匠では無い」
 唖然とした。全く意味がわからぬまま彼に質問をして論文にまとめた。
 さて学芸員になったが肝心の刀剣について何も知らない。それでは取った意味が無い。ここ二、三年は鑑定会に出席したり研磨、柄巻きの研修に参加したりと理解のために行動した。
 そうして今回待ちに待った國平刀匠との出会いが実現した。
 世界で何らかの接点を持つ人との出会いは二十四万分の一とされる。
 一期一会「遠いところ、寒い中よう来てくれはったね」、初対面の奥様の暖かいおもてなしの言葉で出迎えていただき薄暗くなるまでずっと刀剣談議に参加させていただいた。
 ある人に、「自分の出会う者、物は、全て自分の鏡なんだよ」と教えていただいた。刀を探究する志が共通していたのかとても居心地良い空間だった。
 人は皆、自分が好きな人は良い人で、毛嫌いする人は悪い人になってしまう。
 「面影」という銘の刀があるが、扱う者が武器と思ったら武器、武道の道具としたら道具、神の化身とすれば神なのである。
 自分がどう解釈するかによって対当するモノが変化する。武器では無い武器であり最高の工芸品、日本刀の解釈論は今の世界平和に繋がるかもしれない。
 さて、最初に述べたように國平刀匠は現代の虎徹、清麿のような刀匠である。
   奥様を修業にご同行されたことや、酒豪では無いことは別として。とにかく作刀に関する探究心がすごい。作刀は、ある段階まではみな頑張れば出来るが、國平刀匠は頂点に達してもまだまだ研究に研究を重ねる根っからの職人気質である。
 刀剣は、一振り一振り全て違う。唯一無二の存在に手を抜くことをしない。
 個々しか出来ないモノを創り上げる。それが匠と呼ばれる所以であろう。これからの國平刀匠の作刀、刀剣文化の普及活動がますます楽しみになってきた。
 静かな吉野の地で。とても素敵で贅沢な時に感謝。

鉄の美

渡邊モモ
 生まれて初めて日本刀に触れたのは三年前の大学生の頃だ。
 学芸員資格取得のカリキュラムで河内先生による日本刀の講義がなければ一生出会わなかったと言っても過言ではない。
 未だに熱は冷めず、社会人となった今でも毎日、日本刀の事で頭がいっぱいである。飲み会の席などで好きな物を聞かれると、迷わず日本刀と答える。
 一般的には「怖い」「痛そう」という印象が強いらしく、なぜ好きなのか興味をもたれる。
 確かに、日本刀は人を殺める武器だ、しかし、武器としての性能だけでなく姿そのものがあまりに妖艶なのである。だから、私には日本刀が宝石に見えるのかもしれない。もし、結婚するなら、ダイヤモンドの指輪より日本刀が欲しいくらいだ。
 今回、原稿の依頼をいただいたことをきっかけに、改めて自分がなぜ日本刀を魅力的だと思うのか考えてみた。
 結果、「鉄の美」だと分かった。もちろん柄や拵えあってこその日本刀なのだが、やはり一番セクシーなのは刀なのだ。
 殺気と色気が入り混じり、地鉄は女性の肌のように滑らかで、色の深さは見ているものを吸い込むような力を持つ。刃文はさまざまな色や風景を映し出してくれる鏡のようで、いつまでも一緒に過ごせる気がする。
 日本刀好きな女性には時々出会うが、きっかけはアニメやマンガがほとんどだ。
 きっかけより大切なのは日本刀に対する気持ちだと考えているが、実際に日本刀の魅力を尋ねると言葉につまる人が多いのは悲しい事だ。
 社会人になって、学生時代からお世話になっている関西大学博物館の熊次長よりお誘いを受け、河内先生の刀の手入れを手伝わせていただいたり、展示会に参加したりした。
 鍛冶場見学会では、熱気の中で感涙したことは今でも忘れられない。まるで恋をしているような不思議な気持ちになり、感極まってしまった。
 今後、どのように日本刀と携わり、日本刀のために何ができるか模索中であるが、若い女性にもっと日本刀好きが増えてほしいと願う。
 ただ、日本刀好きが増えた場合を考えると、少し妬いてしまうこの気持ちは、カナヤゴ様も同じだろうか。