67号から

両手に花く

杉浦良幸

正宗賞受賞作
銘 河内守國助國平
(刻印・無界)
春暁
平成二十六甲午年吉日製作之
(新作名刀展図録より転載)
 冒頭、少々乱暴な文章で申し訳ございません。
私の気持ちを表そうとしますとこの様な文章が一番しっくりくるような気がします。
 今年、河内國平刀匠が「黄綬褒章」「正宗賞」二つの大きな賞を受賞された。
「河内っあん、お目出とうさん、ようやりはった!」
 河内道雄、河内國平、親方、師匠、先生・・・・・幾つもの名前、呼び名をお持ちの方にこの様な呼びかたは大変失礼な事とは重々承知の上での事ですが、私には「河内っあん」が一番しっくりくる。
 「佳兆」のお手伝いをさせて戴くようになって十七余年、それ以前を加えると二十年はるかに越すお付き合いである。
 今回、河内刀匠がとんでもないものを作られた。「丁子映り」の見事に表れた太刀である。
 昨年の秋、一振りの鍛冶押し(六十六号参照)の作品をお見せ頂いた。
「河内っあん、出来たじゃないですか」完璧な映りが表れた見事な一振りであった。
 この「映り」と言われるもの、徳川幕府が安定した江戸時代、武家の間で「正宗」を筆頭とする相州鍛冶と並んで備前 長船の刀工の作品(特に鎌倉時代)が武家の間でこぞって愛蔵された。
 その結果、単に「長舩」と言うだけで名刀扱いされるほど知名度を上げ、名刀の代名詞のように持てはやされた。
 特に鎌倉時代の長舩鍛冶の作品は有力大名が先を争って 求めた。
 その作品には長舩刀工以外の刀工には見られない「丁子映り」と言われる地鉄の働きが表れた作品が多く、「丁子映り」が表れることが名刀の条件のような考えが出来上がった。
 結果、江戸時代以後の刀工は「丁子映り」を再現することに全力を注ぎ、江戸時代の鍛冶の一部が鎌倉時代の作品に近い作品を作り上げたが、その手法も現在に受継がれることは無かった。
 日本刀が美術品として扱われるようになった明治時代以降も、現在に至るまで刃文の形はほぼ再現できたものの映りに関しては出来なかった。
 今回、河内刀匠がこれを再現したということは、極論をいえば数百年振りの快挙である。
 戦後、刀剣ブームの時、多くの刀匠は 「映り」を再現することは、現在の地鉄 (公財・日本美術刀剣保存協会のたたら製鉄の地鉄)では不可能と考え、「小規模たたら」(刀匠各自の自家製鋼)が盛んにおこなわれ、古刀期の地鉄の復元を試みた。駄目であった。材料では無いということである。河内刀匠は協会の地鉄を使用しての快挙である
 この度「丁子映り」再現の快挙に対し、(公財)日本美術刀剣保存協会は「正宗賞」と言う最高の賞を与えた。
 正宗賞とは、同協会が主催する新作刀コンクールにおいて、その年の最も優れた作品に特別賞とし「正宗賞」を送っている。
 この賞は、重要無形文化財保持者(人間国宝)・無鑑査刀匠の作品も含めて全ての刀匠を対象に審査される最も権威ある賞である。
 最近においては、平成二十二年宮入法廣刀匠が短刀で受賞、太刀、刀部門では重要無形文化財保持者、故・天田 昭次 (本名:誠一)刀匠が平成八年(一九九六)に受賞して以来、実に十八年間該当作品が無く今年は久し振りの受賞である。
 実のところ、今まで河内刀匠から“杉浦さん「映り」でけたで・・今回はほん まものや!まちがいない”との言葉。
 正直なところ、今回も「またか・・・」 の気持ちであったが作品を見せられて、河内っあん、出来たじゃないですか」 であった。
 「御苦労さん・ようやりはった・・・・」ではありますがまだまだやることは山ほどあります。
 姿・地鉄・平成時代の日本刀、将来の愛好家が手にとって「河内國平の刀」と鑑定して頂く刀の完成・・・・・・。お互い老体に鞭打って(少々きついかな・・・・・・)
 それと、今一つの賞「黄綬褒章」の受賞。本当ならば日本国から下賜される此方が格が上なのであります。
 「黄綬褒章」とは読者のみなさん毎年五月になりますとテレビなどで今年の褒章受章者の方はと言う事で発表がありますのでご存知のこと思われますが、多年にわたりその仕事に精励し、人々の模範たるべき人に対して授与される栄典。とあり、我々一般人にとっては戴くことが出来ない栄誉である。この様な名誉ある賞も同じ年に頂くことが出来たことも偏に今までの努力の結果と思われます。
 昭和十六年の戦前派の同い年、あと十年は、否、否、リニヤ新幹線に乗って上京、授賞式に行く心構えで・・・・・・。

                               (佳兆編集担当)