65号から

新島襄佩刀

二代河内守藤原國助
 

 ここに紹介する歌心の二人の志士の帯刀は一振りは同志社の創立者新島襄の河内守藤原國助で今一振りは国学者平野二郎國臣の備州長船祐定です。
 (公財)日本美術刀剣保存協会京都支部発行の「津どい」誌八三号に元京都支部長の新井重熈氏が新島襄差料の國助について詳しく掲載されていますので抜粋して転載させていただきました。

「二題の歌心」
1  憎しとて打たぬものなり 笹の雪

2  昔より忠義もあまた 正成と
       同じ公の 連材となりぬる
(中略)

 新島襄は幼名を七五三太(しめた)といい、江戸神田の安中藩邸内で生まれた。(天保十四年)父親は書道の師範と祐筆を務めていた。彼は六歳の時に和漢両学の手ほどきを受け十三歳で藩主の命により、蘭学を始め後に、幕府の軍艦教授所で学ぶ事となる。
 その頃米國の地図書を手に入れ、これは漢文で書かれたものであったが、その中に大統領制と民主主義、学校教育、キ リスト教の事などを発見し、アメリカ研究の心が芽生えるのである。
 意を決した彼は、元治元年三月、脱国をするため、海軍航海術の修練をつむという表 面の理由をつけて、函館におもむき、吉田松陰の失敗にかんがみ、用心深く準備を進め、同年六月、身なりを町人風に変へ、大小の刀は大工道具に見せかけて、米国商船ベルリン号に乗り込むことに成功した。
時に新島二十一歳であった。このときの心境を和歌に
〝もののふの 思い立田の山もみじ
錦きざれば など帰るべき〟
と歌っている。

新島襄の帯刀(同志社談叢 第十九号より転載)
  *大刀 河内守國助 脇指 肥前國忠吉

 同船で上海に至り、米商船ワイルドローバー号に乗り継ぎ、 翌慶応元年、念願叶って、ボストンに到着することが出来た。
ここで船主ハーディー夫婦と出会い、夫婦は、この若き日本青年の志に感銘し、 以後九年間のアメリカ滞在を援助したのである。
脱出に際し携行した大小二振の刀のうち、國助は船賃代わりとして差し出し、残る脇差は肥前國忠吉銘であるが、船長に嘆願して、八ドルで買い取ってもらって、寄港地香港で、漢訳聖書を入手したのである。
この二振の刀は共に朱色刻鞘拵で、後年船主ハーディー家より同志社に贈られて、今は同志社新島遺品庫の収蔵となっている。
まさに同志社をつくる小さな一粒の種となったのである。

刀 銘 河内守藤原國助造 笹丸雪
慶安二年八月日
大脇勢兵衛尉正長望作之
長さ 二尺三寸八分 反り二分五厘

鎬造、庵棟、中切先つまり心、鍛は小板目よくつみ、地沸厚く、さえる。
刃文は、のたれ調に互の目足をしきりに入れ、葉交じり、小沸よくつき匂が深い。二代國助の作としてなかなかの名品である。
笹丸雪の添銘があるが、笹の雪はサラリと落ちるという切味を、形容したものである。
新島襄の祖父民治は、孫をしつける時に際して
〝憎しとて打たぬものなり笹の雪〟
との一句を示した。そして元服に際して、此の一振を贈ったと云う。(中略)
元治元年七月、ちょうど新島襄が、国禁を犯して、米国船に乗り込み脱出が成功した頃、一人の志士が、京都六角獄で斬首された。それが平野二郎國臣である。 (中略)
今一振りの脇差祐定は、沢宣嘉に奉じられて長州に落ち、伊藤博文や品川弥二郎の手に渡り、
維新の大業を完成する心の支えとなったのである。
時は明治に移り、品川弥二郎の申し出により、京都大学に寄贈され、永く収蔵されることとなった。
二振りの刀は、同じ時代背景の中で、教育と政治という、それぞれの道を歩んだ。そして今日未だその生命を終わっていない。
合掌