64号から

仕事は心を叩け

集英社「ビジネス書」編集部
梶屋隆介
 私は、薄暗い鍛冶場に座っていた。火床は赤々と燃え、炎が立っている。
 真夏だというのに、火が燃え盛っているというのに、全く暑さを感じていなかった。
 これが私が河内國平親方の鍛冶場に初めて入れていただいた時の印象だった。
 同行してくださったのは直木賞作家の山本兼一さんだった。山本兼一さんが河内さんのことを親方というのを聞いて、「ああ、いい言葉だな」と思ったので、私も不遜ながらいつの間にか親方と呼ばせて戴くようになっていた。
 しかし鍛冶場は、真剣勝負の気迫が漲っていた。火床から取り出された赤い鉄塊に向鎚が振り下ろされるや、鉄滓が小さな火の玉となって四方に飛ぶ。五メートルほども離れた私のズボンや靴にも小さな焦げ目がつく。それでも、動いてはならないと思っていた。お茶の席で足を崩してはならないという気分にも似ていた。
 これまで味わったことのない神聖な場所に自分がいることだけは確信していた。
 私が親方の鍛冶場に伺うことになったきっかけは、山本兼一さんが作ってくださった。
 旧知の間柄であった山本さんに、私はある時、こんな相談をもちかけた。「山本さんは丹念に取材を重ね、歴史の中で忘れ去られた匠たちを小説世界で甦らせていますが、そうした取材を通してお知り合いになった匠でお話が面白い方というのはいらしゃいますか」山本さんの答は簡単だった。
 「それだったら、河内國平さんです。奈良で刀鍛冶をなさっている方です」こうして、奈良東吉野行が決まった。
 二〇一一年八月二十七日のことである。ところが私は、奈良の地理に不案内なもので、吉野と聞けば吉野の桜ぐらいしか思い浮かばない。
 京都から近鉄に乗って榛原に向かったが、全ては山本さんの言うなりであった。 親方のご自宅に着いた時も、ちょうど親方は鍛錬の真っ最中で、山本さんの後ろについておずおずと鍛冶場に入れさせていただいた。これが冒頭に書いた情景である。
 その日は仕事場のさまざまな場所を案内していただいた。
 刀が出来る過程のお話も丁寧にしてくださった。しかし、門外漢の私には、お話の意味が全く分からない。ただテープ・レコーダーを回して、親方の声を拾うだけであった。
 そして東京に戻り、拾った声を頼りに最初の下書き原稿を書いてみた。まるで、盲、蛇に怖じずである。
 それでもこうして書いた原稿を河内親方と山本兼一さんに推敲していただく手筈になっていたから、私はそれほど心配はしていなかった。「なんとかなるさ」気楽に構えていたのである。
 なんとかはならなかった。刊行まで二年も時間がかかってしまったことが、何よりの証拠かもしれない。私の至らない下書き原稿におふたりが時間をかけて手を加えてくださった。しかし、親方の仕上げ場に掲げられた言葉に私も勇気をいただいていた。「出来る 出来る 出来る・・・・・ 必ず出来る」
 八月二十六日、『河内國平・鍛錬の言葉 仕事は心(しん)を叩け。』が世の中に出る。
 あらためて親方と山本兼一さんにお礼を申し上げるとともに、多くの方にお読みいただきたいと切に願ってやまない。