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31号から
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刀匠 宮入小左衛門行平
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一平(いっぺい)入門顛末
一平の独立御礼ということで、國平夫妻が我が家に来てくれた折、寄稿を依頼された。
気になりながらもなかなか書くことが出来ずにいた「何を書いたらいいのかな、やはり息子の事書かないといけないでしょう。」と聞いても「まあなんでもいいやん」と國平師。
軽く答えてはいたが、それを間に受けてまったく関係ない、例えば、「私の作刀論」とか「宮入行平考」なんか書いてみたところで國平関係者にはもう聞き飽きているだろうし「どうもすまんなあ」などと、一旦は礼を言ってくれるだろうけど、その後で國平師が何を言うか私にはよくわかっている。「気いきかんやっちゃな」と。漠然とだが書けない理由がある。
一平が刀鍛冶になりたいといって私の所に来たい時と今回の原稿を引き受けた時のこの心境というのか状況がどこか似通っているようなのだ。
國平色と言える強い色彩が絶対にあって、一平にさまざまな葛藤があったことは想像できるにしても、國平色の中で生まれ育ってきたものに私がどう手を施したらよいのか深く考え込んでしまったことと、國平師が積み上げてきた価値観の結晶であるこの冊子、そこに少しでも私の内面を吐露する余地があるだろうか、と一歩引いてしまうこの思い。
文章の場合は無精を決め込んでしまえばそのうち時も過ぎ「しょうのないやっちゃ」で済んでしまう。が、一平は生身の人間である。歳も結構いっていたし本人も背水の陣のつもりであったのだろう。
その上後ろにひかえているのは國平師。
答えは一つしかなかった「親父に教えてもらえばいいだろう」。
平成九年、私の最初の個展に思いもかけず一平が来てくれた。
久々の再開だったせいか、それまで海外を放浪していたことや、今は営業の仕事をしていることなどを話してくれ、随分話が盛り上がったりもした。「営業なんて変わったことをしているんだな」と言う私に「営業なんてメチャメチャ普通ですやん」との答、その軽妙さが私のよく知っている一平であった。
風貌はすっかり青年のそれとなっていたのだが・・・・・・。
それから二年後、刀鍛冶になりたいといって私の所に来た。
東南アジアのどこかを廻った後だったらしい。
個展の時、別段思い悩んでいる風でもなかったが、まだまだ旅に出たそうにしていた。
私は私の旅の話をした。
一平は私に「恵にぃちゃん(幼少から私をこう呼んでいた)はよく足を洗われましたね」としみじみ言った。確かに長く海外に滞在することになれてしまうと、あの退廃的な心地よさが中毒のようになってしまい、つい帰国出来なくなってしまうことがある。
私はある程度、目的と期間を決めていたが、それでも、こんな風に過ごす人生も悪くないな、と思ったのも一度や二度ではなかったように気がする。が、いくらでも時間がある、ではなく仕事があったり、家族がいたりして様々な制約がある中で、無理してやっとのこと時間を見つけて行く。
それはそれでいいものだよ、旅なんかいつでも出来るんだから、と。
一人で食べる夕飯、あんな虚しいものないよな、とも付け加えた。
長くて窮屈な修行に入る前、少しでものんびりと羽を伸ばしておこうと思ったのか、それとも旅で思い悩み、何かを見出したのだろうか。私は後者であることを望みつつ、入門を許可した。
それは巡礼にも似た、深い瞑想のなか、ひたすら自問の時を持つ、そういう旅があることも私は知っていたから。
でも一平君、これで独立。旅なんぞいつでも出来る、と言ったのは私だけれど、何を優先させるかはよく考えなければ。
それは河内一門の若手諸君も同様です。T見君にも、K田君にも、I田君にも、私はいつも豊かな感性が備わっていることを認め、感心しております。
たぶん私はその辺が不足していることを自覚して、飛び出して行ったような気がします。
すでに備わっている君たちは、作品の中へそれを移し込むことです。
感性を移し込む、ということは独自の作品を作り上げるということです。
それは、どうしたって仕事場でしかやりようのないこと。ただ、がむしゃらに。
おっと、いけない。ついつい人様のお弟子に説教など始めたりして。
原稿だって、すっかりお待たせしてしまって。いいかげん叱られないうちにペンを置きます。いやいや、ワープロの蓋を閉めます。 |
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