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その一 美術館収蔵の名刀
平成14年4月から5月にかけて日南町美術館(鳥取県日野郡日南町)において「たたらの里名刀展」が開催された。同点には町外はもとより、県外各地から多数の人で賑わった。そこには、安綱(やすつな)の太刀、景長(かげなが)の太刀、廣賀(ひろが)の刀、藤原忠国(ただくに)の刀、藤原正綱(まさつな)の短刀等が幽玄の美に光っていた。
それらに続いて展示されていたのは日南町が収蔵している現代刀で、日南町のたたら鉄、玉鋼をもって鍛えられた名刀四振、すなわち長野県の人間国宝、故宮入行平刀匠の短刀、その弟子、奈良県の河内國平刀匠の太刀、福島県の藤安将平刀匠の太刀、山形県の上林恒平刀匠の刀が燦然と輝いていた。
その二 短歌一首が刀匠との出逢い
父も我も刃物を鍛えし金床が 納屋の片隅に黒く錆居り青志
新聞に掲載された右の短歌が、書道家であり小説家の白根正寿先生の目に留まり「実は私の書道の通信教育を受けている奈良の刀匠河内國平が日本刀の材料のたたら鉄がなくて困っているが、新聞で見た貴殿の短歌に詠まれている金床はたたら鉄であると思いますが、是非とも譲ってくれないか」との手紙が届きました。
この白根先生の計らいがご縁で、宮入行平刀匠とその一門との出会いと交流が始まった。
その三 たたら鉄の収集
それほどたたら鉄が必要ならと刀匠のために意を決した私は、たたら鉄・玉鋼の収集を始めた。
日南町はもとより、鳥取県、島根県、岡山県を歩き回り、集めては送り集めては送りしたが、多いときには、宮入刀匠の地元から長野県庁の職員がジープで運びに来たこともあった。
刀匠からは、お礼がしたいとの再三のお手紙を頂戴したが「私は、日本古来の刀造りに少しでも役立てばと思ってやっていることなので」と固く断った。
その四 宮入行平刀匠人間国宝に(当時の新聞記事より)
昭和三十八年、五月十七日、宮入行平(五〇歳)人間国宝重要無形文化財保持者(日本刀)に認定される。
その五 お礼にと短刀を賜る
昭和五十一年のある夏の日、宮入刀匠は袴姿で三人の弟子を伴い、「今日はある神社の宝刀を納めに行ったついでに寄りました。これはほんの気持ちですが」と、紫の袱紗に包んだ桐箱を出された。
その中には白鞘の短刀が収められていた。
「今日は取り合えず、短刀を持ってきましたがいずれ長い太刀の気に入ったものが出来ましたら必ず持ってまいります」とのことでした。その時宮入刀匠から短刀を拝受している様子は弟子によって撮影された貴重な写真として残っている。
その六 宮入行平刀匠の急逝 この師ありてこの弟子あり
昭和五十二年、宮入刀匠は心筋梗塞のため急逝されたのですが、以前宮入刀匠に随行していて「太刀の気に入ったものができたら改めて持参します」との師匠の言葉を聞いていた三人の弟子の刀匠は、「師匠には到底及びませんが、あの時の師匠の言葉どおりに師匠に代わり約束を果たします」と次々と何年がかりかで、河内國平、藤安将平、上林恒平刀匠より、長寸の名刀を賜ることになった。
その七 「宮入行平刀匠一門との出逢い」を出版
平成十一年一月に宮入一門の刀匠たちとの出逢いを一冊の本にまとめた。
その中の自作の歌をここに拾う。
金床の歌の一首のをみちびきに 刀匠らは茅屋訪れ給う
金床とふいごを刀匠に渡すとき 老婆は涙を耐えて見送る
鍛刀の鉄を求めて刀匠の 袴姿はひょうひょうと行く
刀匠の鉄を捜して今日もまた 出雲たたらの跡を訪ねる
送りたるたたら鉄にて「行平」の 鍛え賜びし短刀の彩
梅雨明けの刀の手入れと正座なす 国宝「宮入行平」の銘
「行平」の短刀納むる桐箱の 紫紐に闘魂を結ぶ
国宝の宮入行平刀匠の 辿られし跡を弟子等尋ね来
名を成せる刀匠河内國平の 三十四歳の闘魂に対う
亡き師に代り河内國平鍛えしと 二尺三寸の反り身賜る
賜りし藤安将平刀匠の 刃は光るかざす元朝
白鞘の刃払えば上林 恒平作の銘文深き
その八 四振りの刀を日南町美術館へ寄贈
以上のような名刀を我が家の宝などと、いつまでも持っているのは誠に勿体ないことであると気づき、日南町美術館へ寄贈することにした次第である。
美術館では、時折り開かれる展覧会のとき、同時にこの名刀展が開かれている。
今、このようなことを想い起しながら、改めて刀匠達の技を支えている日本精神とその刀魂に感涙を新たにした次第である。
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