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過日河内さんにお会いした折「佳兆」の輪に参加のお誘いがあり、又、私のことをご心配頂き、仕事の事や、年齢についてのお話をいただきました。
仕事については毎日無理をせずやっている事や、年齢については七十三歳になっていることを申し上げたら感心され、では次回の「佳兆」に是非投稿して欲しいと言われましたので、ここに有りの侭の姿を書かせて頂くことになりました。
人生には種々な道程があるようです。
私の場合、やっと念願が叶い、刀造りを行っておりますが、ここに至るまでは遠い道程でした。最初刀造りの弟子として修業に入ったのは、六十年も以前の昭和十七年四月、当時、小学校六年を卒業すると同時に十三歳で、会津若松の刀匠の所に弟子入りし修業を始めました。
時代は、大東亜戦争(第二次世界大戦)の真っただ中で刀の需要も多かった時代でした。
しかし乍ら入門後三年目にして無念にも敗戦国となり、わが国が長い間の伝統と誇りをもって継承されてきた日本刀が、昭和二十年八月十五日をもって作ることが出来なくなりました。
私の夢は絶たれ止む無く故郷に帰らざるを得ませんでした。同時に食糧難がしばらく続いた時代でもあり、農業が一番無難と考えて、数年間農業を続けましたが、当時としては一番安定した職場であった農協の職員として採用を受け定年迄職務に専念いたし、生計をたてましたが、この間、言葉には言い表す事が出来ない苦労がありました。浅学非才な私には努力の連続でした。
これも皆、幼少時代に進学せず刀鍛冶の修業をしたことが原因でしたので、何とかその苦労を無駄にせず、機会があればそれを生かそうと考え、再び修業に入ったのは、退職後の六十歳になってからでした。
刀を作る資格を得るには一人の師匠に付き五年間修業し、更に文化庁の作刀承認を得なければならないと言う制約があります。内心、年齢が六十才と言う事もあり不安でしたが、兎に角、刀匠の資格を得ればそれで目標が達成できると考え、藤安将平(ふじやすまさひら)刀匠(國平刀匠の弟・弟子)に入門の打診をいたしましたところ、心外にも許しを得る事が出来ました。
5年間の修業を経て文化庁の研修会に望む事が出来ましたが、会場が島根県で、公共交通機関ですと不便な所でしたので往復は自分の自動車でした。
今考えるとよく頑張んばれたと思う。
今後、残された余生を活用し、少しでも刀匠として恥じない作品を造っていきたいです。
今後変わらぬご指導よろしくお願い申し上げます。
私が今望むものは何か、それは時間です、刀を造る資格を得ればそれで満足のはずが、今では時間があればもっと良い作品を造り後世に残したいと考えております。
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